「僕はボールじゃない」問題と文系学部の面接・小論文対策について
中学や高校では社会科に分類される内容は社会科学の一分野であったりしますが、社会科学では「僕はボールじゃない」問題が発生しやすいように感じます。一般的に「僕はボールじゃない」問題が定義されているわけではないのですが、似たような困難を体験している先生方も多いのではないかと思い、記事にしてみます。
管理人は、科学で最も重要な要素は再現性だと考えています。再現性を確保するためには正確に言葉を使う必要がありますが、正確に言葉を使うことができれば、他人が書いた論文やマニュアルを著者の意図通りに使うことが出来、自分も他人が再現できるような論文やマニュアルを書くことができるようになります。ただし、再現性を確保するためには他にも重要な要素があり、その一つが客観性だと考えています。
自然科学と比較して社会科学の学習過程で、客観性が問題になることが多いように思えます。というのも、社会科学の場合、自分は観察者であるのと同時に、被観察者であるからです。例えば中学校では物体の運動を勉強するときに、実験を行い、ボールを速度を与えずに落として、その速度が時間とともに大きくなっていくことを観測し、物体は下方向に加速していくことを理解させるカリキュラムになっていると思います。このとき、生徒たちは観測者としての客観的な立場を維持しやすいのではないでしょうか。なぜなら、生徒は実験全体をコントロールできますし、観測されるボールはボールであり、自分とボールを同一視することなど日常生活でもほとんどないからです。
一方で、例えば経済学のような社会科学においては、生徒や学生が客観的な立場を維持しながら現象を分析することは容易でないようです。物の売り買いを観察したとしましょう。目の前で売り買いが行われたことを見るだけなら生徒は観測者で居られることが多いように感じます。しかし、なぜ売り買いが行われたのかを考えるとき、生徒が観測者としての立場を維持することは容易ではないようで、しばしば混乱する現場に出会います。この混乱の主な原因は、観察された以外の情報を使い、自分が物の売り買いをするときの気持ちを、他人の売り買いの考察に利用してしまうことによるものです。物を売り買いした人の気持ちを考え、あたかも自分とその人が同じ気持ちになっているかのように推論してしまわないでしょうか。このとき私たちは、自分も場合によっては観察対象のボールとなることを忘れ、僕はボールじゃないと感じてしまうのです。
この現象は社会科学を勉強するうえで重大な障害になります。なぜなら、社会科学も科学を名乗る以上、再現性を確保するために、~を仮定するという宣言なしに、観察できない情報は使わないよう、理論が作られているからです。
社会科の授業ではあまり認識されないのかもしれませんが、社会科学が文系だからある程度適当でよいというわけではなく、その中で決められた再現性のレベルを守るために、意図的に観察者の当事者性を落とす訓練が必要です。
特に推薦入試などで面接や小論文を課される生徒の指導を行う場合、こういった事実は分かっておくことに越したことはありません。なぜなら、面接官や出題者が社会科学系の教授だった場合、彼ら・彼女らは社会現象に対して、自分の主観が出来るだけ入らないように考えるよう日々注意しているからです。そのような相手に、客観性のない受け答えすれば、彼らは強い違和感を感じることでしょう。これは、面接の評価が低くなることを意味します。
面接や小論文の受験対策というと、どうしても頻出質問に対して回答を用意することや、形式通りに書くことが強調されがちです。しかし、回答のようなものを用意しても、日々客観性に気を配っていないと、事実か分からないことを事実のように言ってしまったり、妙な一般化をしてしまったりして、受け答えがちぐはぐになってしまう可能性に留意すべきではないでしょうか。社会現象や時事問題について、時間をかけて、ゆっくり、客観的にものを考える練習を日々行うことのほうが、受験対策よりも面接の結果は良くなるでしょう。