分かりやすい授業の困難さについて

分かりやすい授業の困難さについて

 新型コロナウイルスの流行に伴い、教育機関でもオンライン講義やオンデマンド講義が積極的に取り入れられるようになり、世間でいうところのデジタルトランスフォーメーション(DX)が急速に進みました。その中で、講義形式の授業を教員が行う必要は無いという指摘が頻繁に行われるようになりました。日本で一番授業が上手い教員の授業を動画としてアーカイブしておけば、個別の中学や高校、大学で授業を行う必要は無いというものです。この指摘はある意味で正しいですが、そうしたからといってすべての児童、生徒、学生の出来が良くなるわけではないように感じます。

https://www.youtube.com/watch?v=mzbZ50x3E1c

 授業の上手い教員による分かりやすい授業の配信は既に行われています。たとえば、大学受験のための予備校ではカリスマ講師による映像授業が浸透しており、莫大な利益を上げています。YouTubeでもわかりやすいと人気のチャンネルは多数あります。実際、これらの授業の受講者からの評判は良く、分かりやすかったという感想を広く聞くことができます。受講者からの評判によって、講師の選抜が行われているわけですから、これは順当な結果と言えます。また、授業の評価は授業レベル別に行われていますから、講義のレベル毎に質の高い授業を受講することが出来ます。

 このようなシステムは、特定の性質を持った受講者の集団に絶大な効果を発揮します。それは、学習するための基礎を身につけているが、受験のための知識が足りていない受講者の集団です。このような受講者は、分かりやすく、範囲が有限な試験に最適化された知識を受け取ると、それをすぐに自分のものとして使えるようになります。そこで、レベルに合った授業を順番に受けさせていくと、急激に偏差値が上昇していきます。

 一方で授業に対して分かりやすいという評価をしながら、理解が進まない受講者も相当数存在します。彼らは、学習するための基礎を身につけていない受講者の集団と言えるでしょう。彼らは、偏差値で見ると、見かけ上は学習するための基礎を身につけている受講者と区別できません。しかし、本人たちが分かりやすいという授業を受けているにもかかわらず、授業で教えたことを出来るようになっていかないのです。

 ここで注目すべきは、彼らの分かるに対する認識の違いであるように思えます。得点が伸びていくグループは、分かっていると答えたことに対しては大抵正しく解答できるのに対し、後者のグループは、分かっていると答えているのに、実際には正確な解答が返ってい来ないということがしばしばおこります。2つのグループの言う分かりやすいは違う意味で使われているのではないでしょうか。

 ここから様々な問題が生じますが、2つの問題を指摘したいと思います。1つは、異なる意味で使われる分かりやすさを、同じ「わかりやすい」という言葉で表してよいのかという問題であり、もう1つは、どうしたら分かっていると答えているのに、実際には正確な解答が返ってい来ない生徒に、分かっていないことを認識させるかという問題です。

 1点目についてですが、前者のグループは人口に対してかなり少ないように感じます。そのため、2つのグループの「わかりやすい」を同じ分かりやすいとして処理すれば、後者のグループの分かりやすい授業は分かりやすい授業として評価され続けてしまいます。彼らの能力は向上しないにもかかわらず。また、前者は「わかりやすくない」講義を「わかりやすい」講義でとして推薦される可能性があります。多数のPVを稼いで儲ける個人や企業の経済合理性の観点から見れば、大多数の視聴者に分かりやすい講義を「わかりやすい」と言っておくのは間違いではないのですが、たとえば日本全体のような大きなレベルでは、将来の経済成長の可能性を摘むことになるようにも感じます。

 2点目についてですが、2点目の解決は生徒にかなりのストレスを与えるように感じます。なぜなら、2点目を解決するために、生徒はこれまで分かっていると思っていたものを分かっていないことを認めなくてはならないからです。本来、試行錯誤をする中で年齢とともに時間をかけて、本人にとっての「分かった」は形成されるので、その認識を変えるのは負担になるでしょう。また、解決を試みる教員にもかなりの負担を要します。この認識を直すためには、生徒の分かったに対する認識の誤りを、いちいち見抜かねばならず、見つけたならばその都度指摘しなくてはなりません。しかし、指摘したならば生徒はストレスを感じることが多いので、気まずい空気を味わうことになります。大抵の場合、小学校のような単純な内容まで戻って学習し直すことを余儀なくされますので、生徒も心中穏やかでないのであろうと推察されます。実際、生徒がその問題に向き合おうとしない場合には、生徒はこのような指導を「わかりにくい」と評価し、「わかりやすい」、道に戻ってしまうことが多くなります。「わかりやすい」授業が世の中に溢れてきたからか、彼らの我慢強さもなくなっているように思えてしまいます。

 ですので、分かりやすい授業のアーカイブ化は、書いてあることを書いてある通りに、説明されたことを説明された通りに理解できるグループには機能するのではないでしょうか。しかし、それ以外の生徒には、手間のかかるアプローチが必要になるでしょう。場合によってはわかっている生徒・児童・学生とわかっていない生徒・児童・学生の2極化をより深刻な形で実現する可能性すらあるように感じます。同時に教員にはお金の儲かる大人数講義ではなく、生徒の理解度を観察し、必要な場合には間違いを指摘し、同時にドロップアウトしないよう励ますといった、手間のかかる儲かりにくい仕事が必要とされるようになっていくように感じます。

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